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by civaka

『セブン』

キリスト教の七つの大罪をテーマに、七つの大罪に値するとされる人間が、犯人によって、残酷に殺されていく事件。ベテランサマセットと新人ミルズの二人の刑事がこの事件を追って行く中で、たどりつく壮絶な結末に、大概の人はなんで?と、思うんじゃないかと思う。

新人刑事役にブラット・ピット。『ジョーブラックによろしく』を見て以来ファンだったので、昼間のテレビのロードショーでたまたまみはじめて、ラッキーと思った。のです。

殺人現場のシーンは、すこぶるえぐい。気持ち悪い。

しかし、途中で意外と早くに捕まってしまった犯人。
七つの大罪をたどるように、悪い奴と彼が思う人間を殺すはずだったのに、彼のシナリオは、狂ってしまった。
そして、急展開のラスト。
予定した人間をすべて殺せなかった犯人ジョン・ドゥは、自分自身をもまた、七つの大罪の悪人として、そのいけにえにしつつ、七つの大罪としてのいけにえ7人を作りだすことだけには、成功する。

けれど、何の罪もないミルズの妻が殺されてしまっていることで、彼のシナリオは、不完全に終わる。ジョン・ドゥはゲームに負けている。
七つの大罪をシナリオどうりに完成できたのならば、神の言葉を忘れ、いまだに多くの罪を繰り返す人々への神の断罪をなしえて、彼は、神になりえたはずだった。

けれど、ゲームは、失敗し、シナリオは、矛盾を抱えてしまい、彼は神になりえなかった。

物語において、ジョン・ドゥの行動は予定外、だったけれど、映画としてのシナリオを描いた、ウォーカーにとっては、予定通りだったはず。

つまりは、最初の5人までは、悪人であったのであり、断罪される存在だった。はず。

けれど、残りの二人となるジョン・ドゥも、ミルズも、普通の人間。ジョン・ドゥは、最初断罪する側ではあっても、断罪される側つまり悪人、罪びと、大罪者ではなかったはず。
七つの大罪をすべてシナリオ通りに進めることで、彼は、彼の中では、神にすらなりえたはずだった。
そして、事件を追いかけるミルズもまた、自分は刑事であり、決して、罪を犯す側には回らない。と、心の奥底で確信していたはず。だった。

けれど、事件が急展開する中で、ジョン・ドゥも、ミルズもまた、結果的に七つの大罪の中にカウントされる大罪者となってしまったのだ。それはまさに、映画のシナリオを描いたウォーカーにとっては、予定通りなのだ。
ウォーカーは、最初から7人の中に、ジョン・ドゥとミルズの二人をカウントした上で、この物語を描いているのだ。けれどだからといって、ウォーカーは、自身を神と思うつもりもないし、ただ、物語として、人の罪を人として、啓示しているだけだ。

大概の人間は、罪を犯したり、犯罪者になったりしない。ものを盗んだり、人を殺したりしない、と心の奥で自分的には、確信しているはずだ。

けれど、実際には、ふとしたきっかけで、自分では思っていなかったような事態に巻き込まれ、入り込み、気がつけば大罪者となっている。

ちょっとしたことで、交通事故を起こして殺人者となっていたり、脱税していたり、スリをしていたり、きせるをしていたり、会社のお金を盗んでいたり、うそをついたり。

ミルズのように思いがけない状況で、犯人を殺す殺人者となる状況に追い込まれてしまったりする。

犯人、悪いことをする人間と、普通の人間とは、きっちり隔離されているわけではなく、きがつけば、普通の人間が、大罪者となっている。その境界は近い。

神の言葉は、届いているようで、届いていない。犯罪など、決して起こすまいと、思っているはずの自分自身が、何かのきっかけでふいに、犯罪者になってしまうかもしれない。

神の言葉は近いようで遠い。
これほど、いましめられていても、なお、人は、目の前に不意にあいた穴に落ちてしまう。

罪とは、人にとって、なんなのだろうと、考えさせられる映画でした。


ブラビがカッコ良かった。特に最後の演技がすごく良かった。心に染みました。
前半は、ただの気持ち悪い映画だったけれど、ラストシーンは、荒野の中での三人が、すばらしかったです。

・<a href=http://cinema.pia.co.jp/title/114553/>セブン@ぴあ映画生活</a>



by civaka | 2014-05-30 15:28 | 映画 | Comments(0)