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by civaka

『人間に向いてない』黒澤いづみ著

なんだかとても暗くて悲愴で読むのがつらくなりそうな本で、図書館で借りるのを一瞬ためらった。
引きこもりの話だよなぁと。

しかし、読んでみたら、とんでもない設定の物語で、書いてあることは、悲惨なのに、面白くて、先が気になって、つい読み進んでしまった。

引きこもりの人間がある日、虫になる。
あるいは、犬などの動物や魚や植物や、
それも、一部に人間の頃の形を残したままの、
見るも無残な気持ちの悪い異形の姿へと、変身する。

大体ここで、大概の人が、カフカの『変身』を思い出すはず。
私は他にも、アニメの『いばらの王』を思い出しました。

つまり、人間が異形のものに変化するという設定自体は、新しいわけではない。
それでも、その設定で、どこまで書き込んでいけるものなのか。

異形になったものは、法的には、死者として扱われる。
つまり、この存在を殴り殺そうが、捨てようが、罪に問われないということだ。
実際、ひきこもりの子供を抱えている親がやりたいと思いつつ、必死に理性で抑えている行為だろうなぁと思う。

それが、物語の中では、法的に許されてしまうのだからすごい。

しかし、実際に、リアルでこんなことになったとしても、法的に死者として扱うということにできるかどうか。
無理なんじゃないかな、と思う。人権団体あたりが騒ぎそうだ。
過失による殺人が許されたとしても、親がわが子と知って、殺すことは、果たして許されるだろうか。
だからこそ、子育てはつらくて、大変なのだ。

この本を読んでいて、思ったのは、人間の集団というものは、中に誰かひとり、ないしは複数の、「突出して優れた存在』、または、サンドバック役つまり、「さげすまれる存在」のどちらかが必要なのかもしれない、ということだ。

例えば、日本には天皇という、絶対普通の国民にはなることのできない畏敬の存在がいる。
とても自分たちにはなれない存在がいることで、自分は普通でいいんだと安心する。

あるいは、江戸時代には、「えたひにん」と呼ばれる最下層階級が、政府によって作為的に作られていた。
当時は、天皇の力が弱まっていて、でも、将軍は、その上に一応天皇がいるので、突出して優れた存在としては、弱い。だから、最下層民を作ることで、一般の農民、商人などに、お前たちは、まだましなんだぞと、安心させる。

かつての学校には、クラスに一人または数人必ず、学級委員などをこなす、すごく頭のいい子供たちがいた。
彼らを見たふつうの生徒たちは、自分たちにはとても無理だ。自分たちは、普通の人間だと安心した。

しかし今、中学受験の流行のせいで、中学から、クラスの中に優れた生徒がいなくなっしまう。
その結果、彼らは無意識に、クラスの中に最下層民、さげすまれる存在を作り出そうとする。
その結果がいじめであり、いじめられた子供は登校拒否になる。

小説の中ではさらに、家庭内におけるさげすまれる存在づくりが描かれる。
要はだれでもいいのである。ちょっとしたタイミングで、家族から無意識のうちに、さげすまれる存在に選ばれてしまう。5人家族の中の二番目の子供、長子、末っ子。あるいは、祖母、母。夫。その時の運次第。
しいていえば、能力値の低いもの、あるいは、弱いもの。

かつては、家長制度により、家庭の中では絶対的権力をもつ父親がいたから、
家族は安心して、父親に従っていけばよかった。
システム的に、ほかの家族がなり代わることのできない存在としての父親。
けれど、いまや、家庭内での父親の存在は平等の名のもとに、地に落ちてしまったのです。
だから、今の家庭は、不安定で、バランスが悪いのです。

主人公美晴の家庭の場合、大人二人がいる分、
弱い立場の一人っ子優一が無意識のうちにさげすまれる存在として、選ばれる。
虫になった途端、夫は、「捨てて来い」と、何の迷いもない。
主人公美晴もまた、いろいろな場面で、わが子優一のアイデンティティをなし崩しにしていく。
愛していて、一生けん命に子育てをしているつもりでいながら。
もちろん、本人たちは、気づいていない。

それでも、虫になったわが子と向き合ううちに、
自分が実は、わが子を人間扱いしていなかったのではないかと、ようやく気が付く。
彼女の気づきが、優一を開放する。
人間に戻った優一と美晴が、家庭内で優位に立った時、
夫が今度は、さげすまれる存在として、虫にと変貌してしまうのだ。

こんな家庭の場合、ペットを飼うのがいいんじゃないのかなと、思う。
さげすまれる存在ではないけれど、明らかに人間とは違う存在として、
ペットが家庭内の人間関係のバランスをとるのだ。
ただ、美晴の家では、せっかく買い始めた犬を捨ててしまうのだ。
あのまま買っていたら、こんなことにはならなかったのに。

障害者のいる学級には、いじめが起きない。
最初から、さげすまれる存在の代わりに、いたわるべき存在がいるからだ。
いじめによって無理にさげすまれる存在を作らなくてもすむ。

かつては、障害のある子は、特殊学級に入れられていた。
手間がかかるから。お金がかかるから。
日本は、みんな同じにすることにこだわりすぎる。
集団はいろんな存在がいたほうが、本当はバランスが取れるのだと思う。

最後に、優一が、母親美晴から
いかにひどい扱いを受けたかがとうとうと並べ立てられる。
無理やり習い事をさせられたとか。
玩具やコレクションを捨てられたとか。
常に否定されること。
嫌がらせを受けても、わかってもらえないこと。
そのほかにもいろいろと。

これを全部やられたら、確かに、自分への自信なんてまったく育たないだろうし、
いじめられたら、学校にもいかれないだろうし、ひきこもりになってしまうかも。

ただ、このうちのいくつかは、誰でも、親も子もやっているかもしれないし、
そのくらいでは、引きこもりにはならない。
気性の強い子は、きっちり親に逆らうので、引きこもりにはならないと思う。
ただ、やさしくて気弱だと、そのまま、どんどん自己評価が落ちて行って、
どうにもならなくなりそうだ。

ただ、江戸時代から続く、子育てってまさにこんな感じ。
親からは結構ひどいことを言われることもあるし、子供のうちから働かされる。
戦いのない社会で、儒教が普及し、武士道が整えられて、
そんな封建社会では、親の意見は絶対で、親の決めたことに逆らうことはできないし、
人生の全ても、結婚相手も、仕事も、すべて親に決められることが、
ほとんどだったのではないかと思う。
当時は、お上に逆らわない、自己主張なんてしない人間のほうが生き残れた。
政府に反感を持ったりして、一揆なんか起こしたら、殺されるだけだった。
話下手で、コミュニケーションができなくても、農業をやるには困らなかった。
だから、当時はそれでよかったのだろう。

そんな昔の子育ての価値観が今までずっと伝わってきてしまった。
けれど、時代の変わるのはものすごく早い。
いまや、こんな子育てでは、自己主張のできる時代にあった人間は育てられない。
親の言うことを聞くいい子なんて、時代じゃない。

そして、集団の中でのいじめ、集団によるいじめは、とてもつらい。
受ける精神的ダメージは、受けたことのない人間には、到底わからないだろうと思う。
その心の傷の癒えるのにかかる時間は途方もない。かるく10年はかかると思う。
数か月で忘れるなんて簡単なものじゃない。
登校拒否、引きこもりになるには十分だ。
かつては、都会で失敗しても、帰る田舎、故郷があったけれど、
いまや、故郷は都会にあって、我が家は都会にあって、帰ることも、逃げることもままならない。
行きつける先は、親の作った家の自分の部屋だけである。

とりあえず、わが子が引きこもりにならずに、大人になってくれてよかった。

人権だけは、尊重したい。

先日読んだ『ライ麦畑でつかまえて』では、子供の立場で描かれていた物語が、
『人間に向いてない』では、親からの立場で描かれた物語だけれど、
親にも、問題と原因があるという結論は、同じだと思う。


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by civaka | 2019-04-23 08:20 | 読書ノート | Comments(0)